高齢者の自己愛性人格障害 小野 和哉

高齢者の自己愛性人格障害
小野 和哉

抄録
高齢者において自己愛の問題はどのような様相を呈してくるのであろうか. 自己愛性人格障害の概念は精神分析の臨床から生まれ, その歴史は新しい. DSM による診断基準を厳密に当てはめると, わが国において該当症例の診断は必ずしも容易ではない. そこで本稿では, 自己愛の問題と加齢との関係, 自己愛性の障害を背景にした高齢者の精神障害の様相などを提示し, 高齢者の精神障害の診断,治療において自己愛のもつ意味を明らかにしてみたい.
K e y w o rd s : 高齢者, 加齢, 自己愛, 人格障害, 治療的接近

はじめに
老年期において受容していかなければならない
課題は多い. 健康の喪失, 近親者の喪失, 職場の
喪失, といった一連の喪失体験が繰り返され, 健
常者においても心理的には自己愛的世界像は傷つ
きを受けやすいものである. またこうした体験は
自分が長く帰属していた集団からの別離を伴いや
すく, 「孤独」といったものもこの世代の心理的
課題であろう. さらに, 従来の社会では, 高齢者
はその存在がすなわち敬われ尊重されるべきもの
であるとする「敬老」の考えが家父長的家族構造
を背景に明確に存在していたと思われる. また以
前は「古希」の言葉に代表されるように, 高齢者
はそれが貴重な存在として尊重される対象で
もあったといえよう. しかし現在の高齢社会にお
いては高齢者が多数の存在となり, 存在そのもの
が尊重されるような考えはしだいに衰退し, 高齢
者は自己存在を自ら保持していかなければならな
い時代を迎えている. このように, 自己愛的世界
像が脅かされやすい時代の高齢者における自己愛
の問題はどのような状況を呈し, また医療者はど
のように対応していけばよいのであろうか. いま
までほとんどとりあげられることがなかったテー
マではあるが, 現在までの研究を踏まえて考察を
進めていきたい.

1.自己愛性人格障害の概念
周知のようにこの障害は精神分析の臨床研究か
ら導かれてきた概念であり, DSM の操作的診断
項目も何回かの改変を経て現在に至っており, 疾
患概念としてはかなり新しい概念である. また
ICD には採用されてこなかった概念でもある. 臨
床の場で自己愛性人格障害(narcissistic personality disorder ; NPD)
が疾患単位として明確なか
たちを現したのは, 1980 年のDSM -Ⅲにおいてで
ある. 精神分析の研究から発展してKohut や
Kernberg らによりその概念の明確化と精神力動
の理論化が進められた. Kohutの概念は正常な
自己愛と病理的な自己愛を連続的なものとしてと

表1 Gabbard による分類
無関心型(oblivious type)   過敏型(hypervigilant type)
1 他人の反応に気づかない   1 他の人びとの反応に過敏である
2 傲慢や攻撃的     2 抑制的, 内気, 表立とうとしない
3 自分に夢中である      3 自分より他の人に注意を向ける
4 注目の的である必要がある   4 注目の的になることを避ける
5 送信者であるが受信者でない   5 屈辱や批判の証拠がないかどうか
6 見かけ上は, 他の人びとによって  他人の言動に注意する
傷つけられたと感じることに      6 容易に傷つけられたという感情をもつ
鈍感である                  (羞恥や屈辱を感じやすい)
(Gabbard G O : Two subtypes of narcissist personality disorder)

らえている点が特徴的である. 彼は, 病的自己愛
の形成過程には人間が生来もつ太古的自己愛が成
熟した自己愛への成長を阻む要因があり, それは
両親の養育態度において子どもへの共感(empathy)
不全であるとした. これに対して
Kernbergは, 両者をむしろ質的にも異なった
ものと考えている. すなわち, 正常な自己愛は,
攻撃性と愛情が統合された正常な自己に対するリ
ビドーの投資であり, 病的な自己愛は, 攻撃性と
愛情が未統合なままの自己および対象表象からな
る「病的誇大自己」へのリビドー投資であると考
える. このため, 共感を十分与えない環境が原因
ではなく, むしろ子どもの体質的な攻撃衝動と羨
望の強さと, それに対して母親が「特別な子ど
も」として扱おうとすることが原因であろうとし
ている.
こうした理論化が進められるなかで, Bursten
はこの障害を渇望, パラノイド, 操作, 男根自己
愛の4 型に分類し, 多様な姿の自己愛人格がある
ことを提示した. その後, Gabbadは無関心型
(oblvious type) と過敏型(hypervigilant type)
の2 型(表1 ) を, Rinsleyはthick-skinned と
thin -skinned の2 型を提示し, 自己愛人格はしだ
いにその姿を明らかに現してきたといえよう.
1980 年代までに進められたこれらの議論により,
疾患概念はある程度明確になりながら, わが国で
は理論の紹介や若干の症例報告を除き最近まであ
まり注目を浴びることはなかった. 臨床の場では,
DSM の操作的診断概念を厳密に適応した場合に
おいて適応症例を見いだすことが少ないのではな
いかという臨床家の印象のとおり, 現在まで症
例報告は少ない. またDSM – IV を基礎とした実証
的研究報告はわが国にはなく, また諸外国でもほ
とんど見当たらない. これは, 本障害の臨床像を
把握するには精神分析的な知識を背景とし, 外来
診療などの短い診察場面では困難であり, ある程
度時間をかけた診断面接を行わないと確定診断に
至りにくいという特徴があるからでもあろう. 自
己愛的防衛が用いられる病態は多いが, それが自
己愛人格障害となるとその確定診断される症例は
少ないのではないであろうか.
このように実証的データのきわめて限定された
障害において高齢者といった限定がつく場合,
過去の自己愛性人格障害者が高齢化してどのよう
な病態を呈しているかということは, いまだ未知
の領域である. 1980 年ごろに確定した診断基準
により成人期の症例に該当症例が見いだされたと
しても, いわゆる高齢期に至った経過が観察され
た症例の報告は現在のところないので推定の域を
でない. また, 筆者の臨床の印象では, 高齢者に
おいて自己愛性人格障害のすべてのクライテリア
を満たす症例に出会うことも少ない. 従来の報告
では加齢とともにその症候の顕著さは目立たなく
なり, 診断基準を満たすものが少なくなることが
指摘されてきており, 筆者の印象とも符号すると
ころである.
理論的側面から加齢を考えると, まずフロイト
的立場では自己愛は未成熟な人格からくる問題で
あり, 愛情の対象が他者へと拡大していく過程の
状態である. したがって, 高齢者で自己愛人格傾
向があれば, それは人格の成熟発展が得られなか
った結果ということになる. 一方, Kohutによ
れば自己愛は生涯にわたり成長を続けるものとさ
れており, 高齢に至っても自己愛的傾向は存在し
続ける. しかし, それは変化成熟し, 理想や野心
として創造的活動の源泉となる. どの理論によっ
ても加齢による成熟が順調に進めば自己愛的な問
題は生じなくなってくると考えられる.
さきにもふれたように, 自己愛性人格障害は
DSM – IV で診断されるかたちの傲慢で誇大性が顕
示されたタイプと, 診断基準にはとりあげられな
かったが前述の過敏型(hypervigilant type) ある
いはthin-skinned タイプが存在する. 日本人では
関係性に対する配慮が欧米より過剰であるために
このタイプが多いのではないかと推定されるが,
高齢者においては, 尊大で周囲の非難を一蹴して
はばからない「ワンマン社長タイプ」と, 日頃は
目立たない控えめな人物であるがささいなことで
も自分が尊重されていないと感じるとそのことに
強い怒りをもって頑強に抵抗しようとする「頑固
タイプ」があるように思われる. つまり, 高齢に
至ってもこうした自己愛の障害の2 つの種類の相
違はある程度存在しうるように思われる.

2.加齢と自己愛
人は年齢とともにその性格をどのようにかえて
いくのであろうか. これは, 遺伝的な負因と, 長
い環境要因があり複雑な課題であることはいうま
でもない. 一般には加齢に伴い人格の構造に緩み
が生じることを指摘する研究者は少なくない. 無
定形で不安定な形態に解体し, 退行しやすくなる
ことが多いとされる. 加齢による人格の変化はそ
の観察者によってさまざまに記述されてきたが,
Neugartenがnegative aspect として記載してい
る項目に① 自己中心性, ②依存性, ③独断性, ④
硬直性を, またpositive aspect として① 多幸性,
③士気高揚, ③思い出に浸る, ④夢を多く描くこ
とをとりあげている. こうした性格変化の背後に
は脳の状態の変化に基づく認知の変化があると思
われるが, 性格として取り扱うような定常的なも
のとなりうるのか否かはやや議論のあるところで
はないかと思われる. いずれにせよ, ここでごく
一般的な高齢者に現れがちな性格変化のなかには
いわゆる自己愛的と思われる所見が多く認められ
るということは留意しておくことが重要であろう.
自己愛的防衛の現れは, 自我が多くの不安にさら
されているときに出現しやすく, これは自我形成
が始まって以来生涯にわたり出現する可能性のあ
る状態である. 一方, 長谷川が指摘しているよ
うに, 老年期は加齢により心理的縄張りの固定化
や狭小化か出現しやすく, その意味で外界からの
ストレスからくる不安が惹起されやすく, 自己愛
的防衛は出現しやすくなっているといえるだろう.

3.老年期における自己愛性人格障害の診断
自己愛性人格障害の診断基準(表2 ) をここで
あらためてみてみると, 高齢者のなかにも少なか
らず存在するのではないかと思われ, また特定の
人物を想起する人も少なくないのではないであろ
うか.
高齢者が公衆道徳を守らない他者に対して公共
の場で声を荒げて興奮する姿はしばしばみられる
ものであるが, こうした易怒的傾向を強めている
高齢者の背後に潜む自己愛的世界像の傷っきとい
ったものも視野にいれて考えると理解しやすい事
例もあるようには思われる. しかしさきに述べた
ように, 老年期における健常者の人格変化として
も類似のものが出現することが報告されており,
自己愛性人格障害と確診するためには青年期から
の持続的な人格傾向が明らかにされていなければ
ならない. このあたりが現時点の研究では推定の
域をでないが, 以下のような症例が自己愛傾向
(narcissistic trait) , あるいは自己愛性人格障害と
関連した高齢期の精神障害ではないかと思われる
ので, 自験例を呈示する.

表2 自己愛性人格障害の診断基準(DSM-IV-TR)
誇大性(空想または行動における) , 賞賛されたいという欲求, 共感の欠如の広範な様式で, 成人期早期に始まり, 種々の状況で明らかになる. 以下のうち5つ(またはそれ以上) で示される.
(1) 自己の重要性に関する誇大な感覚(例: 業績や才能を誇張する, 十分な業績がなぃにもかかわらず優れていると認められることを期待する)
(2) 限りない成功, 権力, 才気, 美しさ, あるいは理想的な愛の空想にとらわれている
(3) 自分が“特別” であり, 独特であり, 他の特別なまたは地位の高い人たちに( または施設で)しか理解されない, または関係があるべきだ, と信じている
(4) 過剰な賞賛を求める
(5) 特権意識, つまり, 特別有利な取り計らい, または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する
(6) 対人関係で, 相手を不当に利用する, つまり自分自身の目的を達成するために他人を利用する
(7) 共感の欠如: 他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない, またはそれに気づこうとしない
(8) しばしば他人に嫉妬する, または他人が自分に嫉妬していると思い込む
(9) 尊大で傲慢な行動, または態度

●症例呈示
以下の症例は, 患者のプライバシーに留意して
実際の症例が特定されないように配慮した改変を
行っている.
〈症例1 〉69 歳, 男性. 「喪失体験」
以前は地方議会で活躍していたが, 2 年前に資
産運用において信頼していた友人に裏切られてか
ら抑うつ不安が強く, 引きこもりがちとのことで
家族のすすめにより来院となる.
若いころより空想好きでよく他人からほら吹き
と言われたりしたこともあったが, 人生において
大きな障害はなかった. 家族からは短気でわがま
まとは思われてきたが, 仕事面ではさしたる問題
は生じてこなかった. 事業を継承してきたという
ことで自己中心的世界像が守られてきた環境にあ
ったといえるかもしれない. 自己愛的世界は晩年
まで比較的崩されることがなかったが, この晩年
での挫折体験は患者にとり大きな喪失体験であっ
たと考えられた. このため抗うつ薬を中心に治療
が進められたが薬の反応は少なく, 心気的な訴え
が増加した. 1 年ほど外来通院するも症状の改善
がみられないために入院治療となる. 入院後の諸
検査では, 加齢によると思われる脳の萎縮傾向が
軽度にみられる他は所見に乏しかった.
自己愛人格傾向のみられる患者が, 高齢になり
自己愛的世界像が崩壊することで抑うつから心気
へと症候が変化した事例である. 世界像の崩壊が
患者の意識を外的な事物から内的な方向に転換さ
せて症状発現に結びついていくさまが明らかな症
例である.
〈症例2 〉70 歳, 男性. 「身体不調」
若いころから不正には敏感で, 自分か正しいと
思ったことは頑強に主張しては集団から孤立して
しまうことが少なくなかった. 結婚生活も1 子を
もうけるも30 歳で破綻し, 40 歳ごろから単身生
活である. その後最近まで自営業を営んできたが,
店の経営が思わしくなくなってきたころから, 公
職者の不合理と思える対応などに抗議しては公共
の場で激高することが多くなってきた. 病院には
不眠を主訴に来院するも自分が希望した内科で睡
眠薬の投与ができないと言われ激高していたとこ
ろを職員になだめられて当科を受診することにな
った. 来院のいきさつや症状の現況から今日まで
の人生を滔々と語るのを主治医が受容的に傾聴
していくと, 非常によい医師に巡り会えたと喜び,
その後足しげく通っては自分の壮年期の著作など
を持ってきては置いていくようになった. 内容は
情緒的体験が鮮やかに描かれており, 内面生活が
豊かだった過去を伝えている. しかし初診から3
年ほど経って糖尿病の疑いなど身体的問題が浮か
び上がってきたころから, 自分を監視している人
開かいるという被害的言動が増え, また公衆道徳
を守らない人に対しての非難は激しさを強め, し
ばしばトラブルを起こすようになった.
青年期から自己愛人格傾向の強かった患者であ
り, 確診はできないが自己愛性人格障害との診断
が成立する時期が存在すると推定される症例であ
る. 高齢化しても自己愛的世界を維持しようとす
る患者の懸命な努力は続いているが, 現実の世界
はしだいに患者にとって不安を惹起しやすい適応
しにくいものへと変容し, しだいに妄想的防衛が
主体になってきている. こうした変化の背景には
CT 像で確認された複数の陳旧性の梗塞などに象
徴される脳器質的変化があり, 認知機能の低下を
きたしていると推定される症例である.
上述の2 例の症例をみてみると, 成人期の自己
愛の問題が高齢化して深刻な症候を呈する基盤に
なっており, そこでは脳器質的な変化も若干加わ
っているようである. 自己愛性人格障害本来の問
題による社会的不適応の問題はこの世代に至るま
ではあまり顕在化してこないが, それは年齢につ
れて人格が成熟してその障害の症候自体が目立た
ないものになってきているということも考えられ
る. しかし, 一方で, それまでの人生において性
格傾向にあった環境を選択し自己愛的世界像が守
られるような状況を創り出してきているという部
分もあるだろう. それゆえ何らかの要因でその創
り出してきた世界が崩れたり, 傷つけられたとき,
器質的変化に伴う思考の柔軟性の低下や, 情動コ
ントロールの低下と相まって, これまで保持して
きた適応を喪失してはじめて深刻な障害として顕
在発症に至るというのが高齢者における自己愛問
題の1 つの典型ではないかと思われるのである.

4.高齢者の「うつ」や自殺と自己愛性の障害の関係
精神分析的な「うつ」の考え方はKaplan らが
その教科書のなかで短く整理しているように,
まずフロイトは対象を喪失した怒りは喪失した対
象と同一化のために内面に向けられるとし, ヒブ
リングはうつ病を内面に向けられた攻撃性とは無
関係な基本的な感情状態であるとし, その代わり
彼はうつ病を欲求と現実の間で自我のなかに生じ
た緊張から起こる情動であると考えた. 彼によれ
ば, 本質においてうつ病は自我のなかの自尊心の
部分的あるいは完全な崩壊であると要約される.
またKohut は, うつ病を自己心理学的見地から理
解しようと試みた. うつ患者は鏡像化, 類似化,
理想化による自己対象化の要求が重要な人により
満たされない場合, その患者は待ち望んだ反応が
得られないことに不完全さと絶望を感じる. この
ようなことより概念化の際に環境内である確かな
反応を得ることが自尊心や全体性を保つうえで必
要になるとしている.
対象喪失を生じたり, 自己愛的世界像が崩され
やすい老年期はこうした理論的な見地から「う
つ」をきたしやすいといえよう. 従来より, 自己
愛性人格障害とうつや自殺との結びつきは指摘さ
れてきたが, 高齢者においても留意すべき要因で
あることが多数報告されている. Useda らは,
50 歳以上の患者の「うつ」における自殺企図と
性格の関係で自己愛傾向がリスクファクターにな
ることを報告している. 類似の報告は多く,
Clarkも自己愛的危機が高齢者の自殺の要因とし
て注意すべきとしでいる. 人格基盤に高い自己愛
的傾向があれば高齢になって発症してくる「う
つ」との関連で病態の深刻さが増すことは容易に
想像されることである. したがって, 高齢者の
「うつ」を扱う視点として自己愛の問題を視野に
いれることは自殺のリスクを評価するうえで大切
な指標となると思われる. 高齢者の「うつ」の診
療で生活史のなかにおける自己愛的側面にも十分
留意した問診が望ましい.

5.高齢者における自己愛性人格障害への治療的接近
自己愛性人格障害の診断概念が精神分析の臨床
から生じてきたものであることからわかるように,
本障害の治療の基本は精神分析的アプローチとい
うことになるが, 高齢者においてはどうであろう
か. 高齢者における精神分析的アプローチの有効
性に関してはLipsonやWheelockなど少数の報
告がみられる. しかし患者のモチベーションとし
てこの障害に対して分析的治療を望む者がわが国
の高齢者にいるとは現実的には考えにくい. そこ
で, 治療的には患者の自愛的世界の傷つきに留意
した精神療法的接近が必要であろう. 基本的には
十分に患者を尊重した接近が肝要であろう.
Kohut は「鏡転移」と「理想化転移」を共感的に
扱うことの重要性を説いたが, これは, 高齢者へ
接近するための上手な支持的精神療法を施行する
うえで理解しておいてよいアプローチであろう.
「鏡転移」は, 子どもが親の前で生き生きと自分
の体験を言語化している姿をイメージして, 親の
温かい瞳に鏡像のように浮かぶ誇らしい自分の姿
に夢中になる子どものように, 患者が自分の体験
などを治療者が聞かずともさかんに語り始めると
いう陽性の転移状況を指すものである. このよう
な場面では治療者はやさしく相槌を打ちながら患
者の気持ちに波長をあわせていくことが大切とさ
れる. 一方, 「理想化転移」は患者が治療者を理
想化して褒めあげる状況に符号するが, ここでは
単に患者は治療者を理想化するのみならず, その
理想化像に自己を投影して一体化しようとする心
の動きがあることを見逃してはならない. したが
って, たとえば「先生は凄いですね」という言葉
には, 「そうですか」や「そんなことはありませ
ん」ではなく, 「あなたこそご立派ではない
ですか」といった波長合わせが必要となる. この
あたりの技法は支持的精神療法に熟練した治療者
ならば自然と身についているアプローチかもしれ
ない. 薬物療法についてはこの障害に特異的な薬
物療法は存在しないので, comorbidity としての
「うつ」や睡眠障害などのいわゆるI 軸障害の治
療となろう. また怒りの問題も看過できない問題
であり, 器質的な変化に関する精査を行ったうえ
で適切な薬物療法が選択されるべきであろう. た
だし留意すべきこととして, 高齢者の怒りを脳器
質的変化として薬物で鎮静を図るまえに患者の怒
りの出現の契機に自己愛的傷つきが含まれていな
いかを吟味し, さきに述べた支持的アプローチや
家族関係の調整, 生活環境の調整を含めたケース
マネジメントを施行していくことが望ましい. 具
体的なI 軸障害の薬物療法については本論考範囲
を超えるのでこれ以上付言しない.

5.現代社会と高齢者の自己愛
高齢になっても以前よりは健康を維持すること
のできる人が増えたことは望ましいことであるが,
この高齢者が従来の貴重な少数者から, ありふれ
た多数者になり, しかも少数者である若年者の負
担の上で生活していくとなると, そのおかれた境
遇自体が自己愛的世界を損ないやすいものといえ
よう. この高齢者の試練の時代環境において自己
愛の問題は, 精神的によりよい老後を送るうえで
たいへん重要なテーマである, 高齢者の自己愛の
問題にいままで最もよく機能してきたのはもちろ
ん伝統的な「敬老」の考え方であろう. しかし,
これを若い世代に所与の道徳として尊重を期待す
るには社会構造が変化しすぎている. 企業内でも
年功序列的賃金体系は崩れ, 高齢化するにつれて
閑職に追いやられるのは大多数の労働者の境遇で
あり, 定年という枠でその後20 年間ほどの無給
生活を求められる. 高齢者の生活保護受給者は増
加の一途をたどっており, 自己愛的世界を維持し
ていくには, 老年期の生き方自体いままでの余生
といった考えから転換が必要な時期がきている.
この年齢層をいかに社会に有意な存在として社会
参加の枠組みに組み入れていけるかが, 今後の高
齢者の自己愛の障害を回避し, うつや自殺を予防
するために最も重要な課題といえるのではないで
あろうか.