わたしは神という言葉を大変不用意に用いている。
考えてみれば神というものは何であるのか、規定することが難しい。
すべての概念規定を拒み、人間の知恵の届かない領域のもので、
すべての限定は正しくないと考える人もいるだろう。
ある人にとっては、それは人間が概念構成する必要のない実体であろう。
実感を伴ったものなのだろう。
自転車を無意識に乗れるようなものだろう。
細かく口で伝えることはしないが、また、
自転車に乗ることを厳密に概念規定する人もいないが、
それは明らかに体験としてあり、共有されている。
しかし自転車という具体的なものがあるからであって、
「自転車に乗る」という内的体験の実質についての
共通性を確認しあっているわけではない。
従って、
ある人にとっては、神は他人に伝えることの難しい何かだろう。
ある人の感じている神と別の人の考えている神とが同じものだとどのようにして議論すればよいのだろう。
できないはずのものなのだ。
外在する神に痕跡はなく、
内在する意識体験については比較しようがない。
少なくとも謙虚に知性を検証してみるならば、
簡単に神という言葉は使えないはずだ。
God でも大問題だし、日本語の神に至ってはなお難しい。
単純に神さまがすべてを配慮しているのだとはとても思えない。
わたしはただ沈黙する。
善なる神といえば、それですでに限定されてしまっている。
そしてなぜこの世界に悪と不幸が満ちているのか説明できない。
善なる神は存在して、人間の住むこの世界を心にかけることなく、
満足のいくような善なる世界を別につくりつつあるのだ、
この世界をつくったのも、現在配慮しているのも別の神なのだと言うしか、
善なる神を擁護する道はないようだ。
9.11についてテレビに映ったアメリカの牧師は絶叫していた。
これは私たちを鍛えるために用意された神による試練なのだと。
ドストエフスキーなら、そんな世界の入場券はお返しすると言うかもしれない。
フロイトを読んだ人ならば集団神経症の共通イメージ化だと言うかもしれない。
新聞でノーマン・メイラーは「人間は子どもの時から命令されるのに慣れていて、ファシズムの環境の方がむしろ自然なのだ」と答えていた。
その延長にある種の神はあるかもしれない。
9.11以降、星条旗と大統領を見て泣き出す人がいるのだという。
すでに危険な領域であろう。
偉大な父性とか、神とかの脳回路が誤作動しているようである。
イエス・キリストは再来してはならない、
大審問官がすべてを取り仕切る、
羊たちは自由に耐えられない、
それしかないのだと古い声が響いてくるようである。