未来は一つか無限か

未来はすでに存在していて、決定しているのか、
あるいは、未来は未定であり、無限の可能性が存在しているのか。
無限といっても、可能性の濃淡としてあらわされるような状態であるが。
時間を追って見れば連続しているはずであるから、可能性の範囲には制限がある。

高校生の時に習ったニュートン物理学では、未来の状態を見事に言い当てている。
大砲の弾は、間違いなく予定の場所を攻撃するだろう。
だとすれば、未来は決定されている。
生物の場合には複雑すぎて人間の脳が追いつかないというだけだろうか。

決定された未来を考える時、一つしかない過去と同じなのだと考えればよい。
時間 tのかわりに-tを代入するだけである。
DVDを見る時には未来の時間に何が起きるか決定していると理解はしている。
しかしそれをわざわざ一倍速で再生して感動している。
時間を指定すれば、何が起こっているのか、すべて分かっている。
DVDはそのような決定論の見本である。

人間の未来も、神の目から見れば、すでに決定されていて、
人間はそれを一倍速で見ているだけなのではないかと考えてしまう。
なぜなら、人間はDVDを一倍速で見て満足する動物だからだ。
理屈から言えば、すべて決まっているのだから、はらはらするはずもない。感動もない。
人生が実は一枚のDVDのようなものだとして、それは感覚としては納得できないだろう。
理屈に過ぎないと。

理屈に過ぎない数式の方を人間の感覚よりも正しいと信じる立場がある。
人間の感覚は錯覚に満ちたもので、間違いが多いからである。
量子力学で出てくる数式を、
その方が人間の常識や日常生活の感覚よりも正しいのだと考える立場が、
多分、正しい。

実はバレエのビデオを見ていた。
筒を覗いて、おや何かあるという仕草をして、筒の中から羽毛を取りだし、
意外な表情を浮かべつつ喜びと驚きを表現しながら踊っていた。
しかしそんなはずはない。脚本に従っているだけである。何度も練習したものだ。
鑑賞する人間が脚本の意図したとおりに感じているはずはない。
鑑賞する側は、そのように決まっている演技をどのように適切に演じているかを見ている。
単に未来の展開を知りたいというだけなら、このような演技と演出にはついていけない。
その微妙なおかしさを感じていた。

高校生の時に習った気体の理論では、
一粒一粒の特定の時間の状態を言い当てることは難しいが、
全体として、かなりの時間がたった後にはどうなるのかを言い当てることができる。
生物の場合の複雑さはこれと同じなのか。自由意志が働く余地はあるのか。

物理の法則、化学の法則、生物の法則、人間の法則と並べると、
次第に複雑さが加わり、人間のレベルでは自由意志の働きが問題になる。
生物の中で自由意志を持っていると感じているのはどのあたりからだろう?
もちろん人間だけだと伝統的に言われてきたし、多分そうだろう。
還元主義は人間を生物に、生物を化学に、化学を物理学に還元しようとしている。
そしてそれしか道はないように思う。
残る問題は自由意志という錯覚をどのように説明するかだけだ。
しかしそれだと生きている実感ととてもかけ離れてしまう。
宗教や倫理との離反も生じてしまう。
解きがたい難問。

人間も四六時中自由意志を感じているわけではない。
ある瞬間には自動機械になっている。
たとえば自転車に乗っている時などがいい例である。
小脳が主に働いている自動機械状態である。
他のことを考えて自転車をこいでいたりする。

生物の持つ複雑さと、人間の持つ自由意志と。
結局は人間が人間の脳で理解しようとしているところから生じる限界なのだろうか。
自動機械に過ぎないのに、
人間の脳は自分を理解するにあたって、自由意志を感じるようにできている。
自由意志は一種の錯覚である。

そのように言ってしまえば、なぜ生きているのか、どのように生きればよいのか、
分からなくなってしまう。
それでも平気だという感覚もあれば、それでは耐え難いという感覚もあるだろう。
悩まずに生きられたら、楽だろう。

複雑さが進行したのは、脳全体の細胞の階層構造が「深く」なったからだと考えられる。
コンピューターのサブルーチンプログラムのように、
下位の行動セットを制御する部分を進化させた。
これは分かりやすいたとえ。
だから、全体の細胞数が多くても、あまり関係がない。
階層構造が深くなっていることが大切。
しかしそれだけで自意識が発生するとも思えないのだ。
ここが謎である。