私の声よ、おまえに届け

ただすべてがゆるゆるとほぐれて行く。
さらには芯にまで達してなおもほどけてゆく。

大切なことなど何もなかったのだ。
私の意識よ。

かたくなすぎたのだ。
鏡にうつる私の意識よ。

ただすべてがゆるゆるとほぐれてゆく。
音はない、香りはない、ただほぐれてゆく。

私が鏡を見つめている。
口や目を動かしてみて、筋肉と像との対応を知る。
鏡にうつっているのは私なのだといつの間にか知る。
そして鏡がないときでも世界はあると知る。
さらに私が見ていなくても世界はあると知る。
そのようにして客観的実在は完成する。

見よ、この論理は、すきまだらけではないか。

素朴実在論よ、おまえはあまりに素朴すぎて、詩にもならない

私は鏡を見つめて、それを世界だと思った。
そのとき頭の中では、「無論、世界のすべてが
この鏡の中に見えているのではない。
鏡の中に見えているのは世界の一部でしかない。
しかし私は外延することにより
世界を推定することができる。」

ここにもすきまがある。
おまえに見えているのは、
おまえの意識の、
しかもその一部分だけだ。
おまえは、おまえの意識に属さないものなど
見たことがないはずだ。

「この実在の机はわたしの意識の一部などではない」
と反論するか。
違う。
おまえは実在には到達することはできない。
ただおまえの五感と実在の、
瞬間の相互作用によって、
意識が生成されたに過ぎない。
実在はきっかけでしかない。
内容の大部分はおまえの脳の内部にこそある。
きっかけはただインクのシミで充分だとロールシャッハが言っただろう。
だからおまえが見ているものは、おまえの意識なのだ。

私の声よ、おまえに届け
まだ知らぬおまえに届け