インターネットと情報社会

インターネットのはじまりは軍事研究だったといわれている。
大切な軍事情報のある建物を核攻撃されたときにどうなるかを想定した。
誰が生き残っているか、情報を集めたいと思った。
中枢のあるネットワークだと、中枢部が破壊されると致命傷になる。
分散型のネットワークだと致命傷にならない。
だからヒエラルキーではなくネットワークが安全性が高いことが分かった。
階層構造ではなく蜘蛛の巣状である。
中心が壊れてダウンすることもないし、幹線が壊れてダウンすることもない。
部分が壊れても、分散してあるので、他から予備の情報を飛ばせるし、近い線が壊れても、遠回りできる。
ただしマイナスもあって、情報を更新するときにはあちこちに通知しないと、古い情報がそのままで残ってしまう。

日本の歴史では、最初は1984年に大学間をつないで、1986年にアメリカとつないだ。英語圏の人は漢字の必要性を認識していなかったらしく、村井らが苦労して納得させたと記録にある。

パソコン通信はインターネットとは別に1980年代後半からからあった。1993年にインターネットとパソコン通信の間で電子メールを送れるようになった。1994年からパソコン通信はインターネットにつながるサービスを提供した。
そしてWin95が発売されて、ISDN回線が普及して、インターネットは爆発的に普及した。

インターネットの特徴として、オープン、自律、協働といわれたりする。それが長所であるが、そのまま短所でもある。悪意のある人にもオープンだ。害悪のある情報も自律的に増殖してしまう。ネズミ講のようなものに協働的に作動したりする。

パソコン通信は匿名の世界だったので、インターネットも匿名の世界の要素がまだある。しかし現在、実際には匿名性は保たれていない。「プロバイダ責任制限法」という法律で定められているように、掲示板の運営会社がログを提出すれば匿名ではなくなる。ログを提出すればプロバイダ会社の責任は制限してあげるというのが法律の趣旨である。つまり責任は個人になる。メールの場合はさらに簡単で、どこからどんなルートを通って届いたかが、メールの「ヘッダー」といわれる部分に付け足されている。

そのあたりはまだ新しい道具なので、使う側で「使い方」を考えていかなければならない。
自動車のようなもので、たとえば体調の悪いときには運転しないとか、自分で注意することも必要である。また、社会を制御する権力が、信号機をつけたり、交通違反を取り締まったり、免許証を交付するときに教育したり、様々な努力をしているように、共同体として決まり事を作るのも有効だろう。情報は国境を越えて入り込むので、事は簡単ではない。

一方で、情報が商品になる社会になった。情報社会である。
昔は商品に関する情報という意味で価値があった。情報社会は情報そのものに価値があると見なされ、売買される。

考えてみると昔から情報は大切なものであった。脳がある限り情報は大切である。しかし情報が独立して売買される傾向は少なかった。
たとえば書籍の本質は情報である。しかし書籍としては紙がかさばるとか重いとか保存が大変だとか、いろいろな要素が絡んできて、値段が決まった。現代ではテキスト情報そのものに値段がつけられる。
音楽も同様で、昔はレコードやCDの形で、具体的な物質が売買された。現代は音に関するデータだけが売買される。どのような媒体を使うか、どのくらいの情報密度が必要かは、場合による。
お医者さんの仕事も具体的なもの、つまり注射するとか薬を出すとか消毒するとかよりは、診断やどの薬が必要なのか伝えるとか、予防のための注意とか、情報の提供が中心になっている。

株に関しても情報化である。どの株があがりそうかという情報に関しての価格がついてやりとりされるような部分がある。それがさらに「あの株が上がりそうな情報をあの人が○月○日から流すという情報」に価値が出たりする。情報についての情報というわけで、これはどんどん次元が高くなる。メタ情報ともいうべきものだ。そしてその影響の範囲が広くなれば価値は上がるわけで、高価な情報も出てくる。

情報の値段はどのように決まるか考える。生産の時間や原材料、輸送コスト、荷物置き場のコスト、関税、書類代、いろいろなコストの総合として一応、原価というものが考えられる。
しかし現代は原価主義ではなく、市場主義である。原価がどれだけかかっていて、自分の生活費を上乗せして、いくら、というのであれば、そんなに大儲けする人はいない。原始的な売買で考えれば、大儲けしている人を見たら、もっと安く売ってくれる別の人と取引しようと思うだろう。それを考えたのが独占禁止法である。

情報社会を決定づけたものがコンピュータとインターネットといわれている。現実の物質は移動していない。ただ情報が移動して、その逆に資金が移動していく。
ネット上での株の売買などが典型的だろう。情報が動いているだけである。

仮想空間では仮想の土地を買って家を建てて、友達をよんで、遊んだりできる。そのために現実のお金を使ったりする。仮想のお店を開いて、売り上げがあれば、現実のお金に換えることができる。

昔ならたとえば弁護士先生の知識や知恵はお金にするといくらに値するのか考えて、
拘束時間に対していくらとか決めていた。

その方式だと、頭のいい人はすぐに解決してしまうから、金額面では不利になる。
なかなか正解を出せない人の方が儲かることになる。

残業代を出すというのも、一発で決められない人に追加給料を出しているようなところもある。
リリーフピッチャーが打たれて、実質はリリーフに失敗しているのに、記録上は勝ち投手がつくとか、そんな感じ。

そこで企業としては、正味の対人折衝時間と、事務作業時間を分離しようとしている。
有能な人ならば能率が上がるような設計である。

しかしこれも社員が有能でもクライアントの能力が低いと思った通りの効率にはならないので、
まだ悩んでいるらしい。
こちらは正解が見えていても、相手がなかなか正解に納得しないのでは仕方がない。

こうした情報社会の流れの中で、
いいものをつくれば売れる時代でもなくなり、
いいコマーシャルをつくる能力も問われるようになった。
いいコマーシャルとは何かと言い換えてもいい。

企業イメージをつくることが企業価値を高めると考えられている。
それはまるっきり、物理的測定にかからない、脳の興奮度に依存する項目であって、
ますます物質の時代から脳の時代になっているのだと思う