インターネット・リテラシー

インターネットや携帯に関しての接し方をきちんと教育しようとの動きがあり、
おおむね妥当な教育がなされている。
自分が考えるインターネット・リテラシーについて記してみる。

参考としては
http://miau.jp/20080905/MIAU%20Ver101.pdf
http://www.nec.co.jp/literacy/basic/

1.発信側として
問題になるのはうっかりプライベート情報を書き込んでしまい
そこから個人情報を調べられて被害にあうことがある。
そのことを防ぐには、対策が幾つかある。

1-1.いずれにしてもネット上での匿名は一時的なものだと心得ること
現状では、技術力のある人が調査をすれば、自分では匿名だと思っていても、
調べられてしまうことがある。
従って、そうなった時にも自分に不利にならないように
意見も情報も選択して書き込むべきである。

1-2.匿名性を確実に守るようなシステムにする。匿名性は大切な文化であるとも思うからである。
匿名性を悪用する人間がいる限り、この方向は限界がある。
しかし現状では技術力のない個人にとっては、自分が書くことについては匿名性がないのに、
自分が書かれたことについては匿名性があるとという現状になっている。
突き止めるにはある程度努力が必要である。
そこで、匿名性の文化を守るために、悪を知りつつ、善意に期待して、匿名性を確実にする選択も可能だと思う。
そのような中で開花する文化もあるはずだと思うし、それも貴重だと思うからである。
たとえば企業内の人間からの匿名の告発など。
これは個人の努力では完成できないが、
このような方向で動いていると告知することで、かえって、現状での匿名性は破られていると認知させることができるかもしれない。

1-3.匿名性を徹底的に剥奪して、明確なIDをさらした上での発言だけを許可する
現状ですでにそうらしく、「ネットは匿名ではない」と教育が進んでいる。
これもひとつの方向であり、社会がそのように同意すれば、さらに啓蒙を徹底することが可能である。
国民すべてが自分のIDを持ち、発信する時も閲覧する時も、常にIDを明確にしておく。
閲覧のすべてと発信のすべては記録され、管理される。
私はこれも有力な方法であると思う。
無論、このようなシステムの裏をかき、匿名性を維持する方法を見つける
ハッカー系の人たちは存在し続けるだろうが、
それは例外と考える。

1-4.発信マナー
ネットや携帯での発信者の陥りやすい罠を知ってもらうことである。

1-4-1.個人的メール
自分では何気なく発信した言葉が誤解されることが多い。
フレンドリーだったつもりが敵対的な解釈をされることもある。
これは表情や声の調子が伝わらないことによるもので、
自分では悪意が無くても、誤解されて悪意と受け取られたり、
解釈には常に不安定な要素を含む。
メールやチャットの場面での個人の言葉は
過剰になりがちで、あとで見直してみると、自分としても過剰だったと反省することも多い。
また、受信者が多数になる場合には、特に慎重に振る舞う必要がある。
従って、このあたりについては、
訓練をして、誤解のない、過剰さのない、通信を心がけるべきである。
そのためのネット・携帯用の読み書きの能力を訓練する必要がある。
最近言われているように、ネット・携帯の中では人間は過剰に攻撃的になる傾向があるので、
その部分をきちんと是正する。

2.受信者として
ネット上の記載の真偽や意見の適切性について、
どのように検証するか、個人でスキルを持ってもらう。
これは変な店で変なものを買わないようにとか、
変な人について行ってひどい目に遭わないようにとかと同じことである。
しかし親の世代が体験していないことが多いので、
親の態度によって自然に教育することが難しい面がある。
そこで教育の一環としてまとめて要点を知ってもらう必要がある。

2-1.情報の真偽
これは誰が発信しているか、情報の鮮度はどうか、昔は正しかったことでも現在は間違いではないか、用心する必要がある。

2-2.情報の極端さ
情報でも意見でも、それは世間ではどのくらい極端なものなのか、あるいは中道よりの穏当なみのなのか心得ておく必要がある。
そのためには、話題の分野についての、ある程度の見取り図が必要になる。そこまで勉強してからでないと、ネット・携帯情報は、信じられないと言うことを知っておきたい。
そうした見取り図が心の中にできている場合には、自分として敢えて極端な意見を採用しようとする人もいるはずで、それは主義主張として構わないと思う。

2-3.まじめ度・ふざけ度
極端な意見を述べているとしても、その奥にどの程度のまじめさがあるか、ふざけ加減があるか、読み解く必要がある。
極端な意見をふざけて言うのはよくあることで、それはそのように聞けばいいことだ。
極端な意見をまじめに言うとしたら、高度な判断力を持って臨む必要がある。

2-4.極端さとまじめさをクロスさせて情報や意見をとらえる。
これが有効であると思うのだが、如何だろうか。
そのためにも、何が極端で少数派なのか、何が中道で多数派なのか、心の中に見取り図を持つ必要がある。そしてその見取り図を教育すると言うことが実はイデオロギー教育というものなので、ここについては、ひとつの世界観だけではなく、複数の立場について、冷静な理解が必要な部分だと考える。そのような教育を受ける途中でネット・携帯に接して直接感化されるので、そこが難しいところである。

2-5.極端さとまじめさの把握と言っても時と場合による
たとえば江戸でのそばの食べ方という話がある。江戸っ子ならそばはこう食べるという蘊蓄話で、果てしなく意見はある。一方で、食べればそれでいいんだ、独自マナーなどはローカルなものだという割り切りもある。
しかし実際に江戸の名店に行って食べる時の作法と駅前の立ち食いそばを食べる時の作法は違うものである。ある程度の格式のある店では、それなりの通の客が揃っているかもしれず、その場合には、そういった人たちに敬意を表して、一応彼らの考えていそうなしきたりを守ってあげることが社会性というものである。TPOに合わせた行動選択と言うことになる。
これはネット・携帯でも同じことで、どのような場所にいるのかをわきまえて、発言の様式を選んでいくことも必要だろうと思われる。先輩たちが築き上げた伝統というものがあるのだから、まずはそれを受け入れる態度も必要なのだろうと思う。心の中では、ここの店に来る7割くらいの人は、世間からいえばひょっとしたら極端かもしれない考えをまじめに信じている
人なのだなと理解するという程度でよいのだ。一時的にモードを合わせればよいだけだ。
社会にはドレス・コードなどというものもあり、通になったらそれを破っても楽しいが、通になるまでは、一応入門者のたしなみとして、伝統に従うのが礼儀だろう。