とてもいいと思いますが、いかがですか?
以前なら、そして曲によっては、はちあきなおみは、好みではなかった。
同様に、美空ひばりも好みではなかった。
最近、ちあきなおみは、曲によっては、好ましい。
美空ひばりは、いまも良さが分からない。
都はるみはときによい、ときに好まない。
石川さゆりはいつもとても好き。テサテンもいつもとても好き。
音程が微妙に揺れる。音の長さ、始まり、強弱も、微妙に揺れる。
動体視力の優れた人は、ピッチャーの投げる球の縫い目が見えるし、
ホームベースのあたりで球がほとんど止まって見えるらしい。
音に関する感性が優れている人は、
私などの感覚しているものを100倍くらい拡大して敏感に知覚しているのだろう。
こればっかりは、わからない人にはわからないし、
わかる人にはわかる。
理屈も何もない。
映像ならば、拡大したり、スローモーションを使ったりすれば、
視力のいい人や、動体視力の優れている人は、こんな風に見えているのだと説明できる。
音楽はどのようにすれば説明できるのだろうか。
私は音痴で、弟は音感が優れている。
一緒に歌って、私は楽しいのだが、
弟は、気分が悪くなるらしい。
フレーズの最後がいつも半音上がって、ビブラートがつくのだと言う。
弟と同じように歌っているつもりなのだけれど。半音って、なに?
こんな私も、他人の音痴は分かるのだから、不思議なものだ。
そして自分の歌うビデオを見ると、
音痴であることは明白なのだった。
自分が歌っているときは、分からなくなる。
脳の別な回路が働いているのだ。
絵の場合も、
自分の描く絵はへたくそだと分かっているのだけれど、
訂正できないのと同じだ。
まあそれでも、音ならば、録音を聞かせれば、わかることもあるということになる。
味の見分けも、人によってかなり異なる。
そして、これは「柿の甘みが入っています」と「チャングムの誓い」のようなことを言えてしまう人もいるので、
これも、わからない人にも証明し易いだろう。
感覚については、以上のような感じで、そのものを感覚できない人にも、分かってもらう方法が考えられる。
思考についてはどうだろうか?
たとえば、数学ならば、正しいかどうか、検証はしやすい。
難しいことは難しいけれど、
自分には分からないことは比較的はっきり分かるのではないか?
数学は、諦めがつく教科だろうと思う。
物理ならば実験すればいい。
理科系のものは、原則、実験で、正しさを証明きる。
(二回間違って結局正しいという場合もあるので、簡単ではないが。)
人文系になると、微妙になってくる。
法律の話も、法学から出発して政治学に近くなってくると、
どんどん、純粋論理がねじれてゆく。
文芸になると、さらに分からない。
好きかきらいかでいいような気もするけれど、
しかし、「私にはこの文章のすばらしさが感覚できる」と
言い張る人がいて、
その人の書く文章が非常にわけの分からない、
場合によっては嘔吐しそうなものだったりする。
随分あいまいなところまで来てしまったが、
ちあきおなみには、音の世界が100倍くらい、微妙に複雑に見えているのではないかということが言いたかった。
そしてその上で、正確さが大切なのではなくて、
人を感動させるこつを知っていると言うことなのだ。
ちあきおなみは私の感覚の癖を知っているのではない。
大勢の人の感動しそうなつぼを知っていて、それを表現できるということなのだ。
感覚に普遍性があるということは、脳の構造に普遍性があるということだ。
つまり、脳の発達と日本語が絡み合う相互作用の現場に、構造の普遍性がある。
そのようにして織りあげられた普遍模様が、ちあきなおみの歌なのだ。
子供には分からないと、
私もまた言いたくなってきた。