N.M.L. – ZERO LANDMINE (Full version,Live) Ryuuichi Sakamoto

今年も9.11を迎えた。

地雷を何とかしようという呼びかけの歌を紹介。

N.M.L. – ZERO LANDMINE (Full version,Live) Ryuuichi Sakamoto

N.M.L. – ZERO LANDMINE (短いバージョン)

Ryuuichi は、りゅういち を りゅいち と区別するためにuが挿入されているのだと思うが、なるほどおもしろいですね。

英語の発音は別としても、たとえば日本語で、五十音はいったいどこの地域の言葉を表記しているのでしょう。沖縄、九州、と北上して、京都を過ぎて、東京にも存在せず、さらに東北と北海道の言葉を表記できるはずもなく、ラジオやテレビを参考にしても書き言葉と話し言葉は異なるようだ。歴史をさかのぼり、江戸、京都御所、鎌倉幕府、平安京、どこでも多分、書き言葉は話し言葉を正確に写し取ってはいなかっただろう。
なぜ日本の方言使用者たちは自分たちの言葉を正確に文字として表記できる方法を探らないのだろう。話し言葉の語彙もイントネーションもアクセントも独自であるのに、なぜ書き言葉が日本統一仕様なのだろう。それが政治というものなのか。EUの事情も考える。漢字文化圏というものも考える。

「表情、匂い、味の伴った言葉」→「電話のスピーカーから聞こえる言葉」→「書き言葉」、これらを比較すると、「対話の状況」から音声だけを残したものが「話し言葉」では決してなく、「対話の状況」における視覚の役割と、「書き言葉」における視覚の役割は異なり、また、「話し言葉」から「書き言葉」への変換も、聴覚から視覚への変換というものでもない。
盗聴マイクで録音した言葉と、電話での会話の言葉と、留守番メッセージの言葉は、全部異なる。
携帯電話で話すことと、携帯電話で留守番録音メッセージを聞くことと、携帯メールを読むこととは全部異なる。
留守番メッセージを語ることは、即席に手紙を書いているようなものだ。従って、携帯メールのほうが使いやすいとの感覚も生じる。
忙しい人ほど、直接の会話しかしなくなる。

伝統的な哲学では、ここで共通感覚(sensus communis)を想定する。「対話の状況」と「話し言葉」と「書き言葉」の三者は、お互いに関係なく独立しており、それぞれは共通感覚に直結している。三者のうちのひとつから他のひとつに至るには共通感覚にいったん戻り、経由して、はじめて至ることができる。
それなのに学校教育はこれら三者が水平方向に変換可能であるとの錯誤を誘発している。
詩を書く時に、話す言葉をそのまま、考えたことを素直にそのまま、とか言われて、よく考えてみると、自分の話している言葉を正確に五十音に変換はできず、考えたことを文字にしてみても、とてつもなく異なり、そのような一種のもどかしさは、注意力があればどの人も経験しているのではないか。
そのもどかしい変換作業を高速化することが教育であった。しかしそんなことを高速に行うことが必要なのはお役人くらいのものだった。

文字は時間の壁を越える手段であったが、現在では録音ができる。そこから文字と統治を考える。法治国家は文字があって(そして暴力装置があって)可能になる。官僚も文字に依存している。教育は文字を基礎にしている。考えてみれば人間の歴史、生物の歴史の中で異常なことだ。
生物が実体ではなくシンボルに反応して運動しているのは、多分性行動が主だろう。だとすれば、文字の脳回路は性的中枢と関係があり、そのあたりのことは多分、政治の脳中枢と関係がある。K氏のことが思い出される。彼の語るワンフレーズは、実は話し言葉ではなく書き言葉であり、文字中枢が刺激されている。
A氏は話し言葉の世界に住んでいる。瞬時に理解されて瞬時に消去される。T氏は書き言葉の世界に住んでいるが、その内容を理解するには大きな記憶容量が必要で、従って一般の支持は広がりようがない。A氏は話し言葉の世界に住んでいて、マスコミが書き言葉に翻訳し、一般の記憶容量に合わせてマスコミが情報を短くしている。
この点では、マスコミが現在のように機能していれば、A氏でなくても構わないことになる。
K氏のように、書き言葉の世界に住み、一般の記憶容量に合わせて短く発信できる人が、実は現代政治においては適任である。
I氏、T氏といった顔が浮かぶ。

話題に飛躍があり、親切な解説とは言えないが、これはわたしが書き言葉の世界の住人ではないことと関係していると思う。かなり解凍しないといけないが、解凍するのは別の人だと思う。