論語を精神分析

論語は世界の古典ですが、学校で習うとまことに味気ないものです。
まずは復習。始まりの一節を読みましょう。
「子いわく、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋(とも)あり遠方より来たる、また楽しからずや。人知らずしてうらまず、また君子ならずや。」
一般の解釈は、こうなります。「孔子が言われる、学んだことをいつも繰り返し習っていると、いつの間のにか理解が深まって自分のものとなっている。これはなんと嬉しいことではないか。友人が遠方から来る、これは楽しいことだ。世間の人が自分の学徳を認めてくれなくても、怒ったり不満に思ったりしない、これは立派な人である。」
平たく言うと、「復習しなさい。音楽のフレーズが演奏できるようになったら折に触れて弾き直してコツを忘れないように。野球で縦のスライダーを覚えたら、感触を忘れないようにときどき練習しなさい。友人が遠方から来たら嬉しい。他人のことは気にするなただ学問しなさい。」

そうでしょうか。これが世界に冠たる古典の第一節なのでしょうか。これでは高校生は眠ってしまいます。あまりにも当たり前です。
孔子先生の言葉をすこし深く解釈すると、こうです。

学んで時にこれを習う、またよろこばしからずや。これは「暗記したらいつでも暗唱して忘れないようにしなければならない。わたしの弟子たちにはこんな当たり前のことを言わないといけないくらい愚か者が多いので絶望だ。いいかげん一回教えたら忘れるな。」

朋あり遠方より来たる、また楽しからずや。「本当の友は遠くにしかいない。近くにいるのは友達は呼べないような奴らばかりだ。」これも絶望の言葉。こんな言葉を言われた孔子の弟子たちはどんなに失望しただろう。

人に知られずして憤らず、また君子ならずや。「君子は淡々と生きろ、それができないで何が君子か。もともと世間からの評価には深く絶望している。しかしわたし孔子も、このように人に知られたくて言葉を残し弟子たちを食わせている。情けない。これも絶望である。」

というわけで、いきなり深い絶望を記しているのだと思う。弟子に絶望、自分に絶望、世間に絶望で、どこにも希望がない。
孔子さん、いいじゃないですか。まずこの絶望に直面しましょう。ここまでが精神療法第一ステップである。